熱願冷諦

いい言葉を知った。ねつがんれいてい。

「熱願冷諦」。求める時にはひたむきに求めてやまないが、どうしても許されぬと悟ると、「さうかい、それならそれでよろしい」ときっぱり思い切る意、吉村昭さんの信条。年々精神的握力の低下を嫌悪していたが、冷諦を知れば熱願も臆さずに済むのかも。
Twitter / 牛島 彩

スッと腑に落ちた。そうありたい、と自然に思えた。
自分は熱く見られがち(単に声がでかい&発言したがり)な一方で、中身はとても冷(醒)めているほうだと思っている。そのギャップについて考えることもある。熱くありたいと憧れることもがるが、冷めてる自分は嫌いではない。
そのへんの「熱」と「冷」とのバランス、それぞれの落としどころとしての理想形をズバリ言い当てられたような、そんな感じだった。熱く願い、冷たく諦める。ふむ。たしかにかくありたい。
熱く願い続けること。きっぱり諦めること。もちろんどちらも難しい。簡単にできることではない。モチベーションは中だるむものだし、うじうじ引きずるのも人情だ。けれど、だからこそ「熱願冷諦」って言葉をスイッチにして、パシパシと小気味よく切り替えてゆきたい。詰んでいる事柄についてうじうじするのはやめにしたい。そのほうがたぶん気持ちよく生きられると思うので。


ところで、辞書を引くと「冷諦」の部分が少々違うようで。

熱心に願い求めることと、冷静に本質を見極めること。▽「熱願」は熱心に願うこと。また、熱烈な願い。「諦」は明らかにすること。よく見てはっきりさせること。

出典三省堂提供「新明解四字熟語辞典」より

熱願冷諦 - 四字熟語辞典 - goo辞書

「あきらめる」は「あきらかにする」から来ている、と聞いたことがあるので、おそらくこっちが元だろう。別にどっちが間違いってことではなく、これはこれで納得。スパッと潔く諦めるためには、冷静な観察と洞察、そして判断が必要ということだものねえ。詰んでいる事柄についてしっかり「詰んでいる」と見抜けるか、そのために考え抜けるか。「粘り強く」という態度は、ここにこそ宿るのであって「諦めない」と必ずしもセットではないのだ。


熱願冷諦。何度も脳内リピートしながら血肉としていきたい言葉である。