ポール・オースター『ムーン・パレス』

新潮文庫。昨年読み始めたのはいいが、途中で読む気力が萎えてしまい、それがキッカケに昨年の読書ペースを完全に乱した元凶の一冊。元凶とか言ったけど面白かった。途中で諦めずに(諦めてもいいと俺は思っているけれど、本書に関しては)よかった。
偶然(ご都合主義と断じても構わないほどに)つながってゆくいくつかの話。ひと続きの物語として、というよりも、それぞれを別個として楽しんだ感じ。俺的にはそれで充分。内へ内へと向かってゆく思弁的な言及の多さは好みが分かれるところであるが、青春小説と考えればご愛敬。
以下、ぐっときた箇所をいくつか断片的に引用。

僕にはそれまで、何ごとも一般化してしまう癖があった。物同士の差異よりも、類似の方に目が行きがちだった。それがいま、無数の個別性から成る世界に放り込まれて、五感が直接受けるデータを言葉によって再現しようとあがいてみると、自分の無能ぶりをつくづく思い知った。
(P178)

芸術の真の目的は美しい事物を作り出すことではない、そう彼は悟った。芸術とは理解するための手立てなのだ。世界に入り込み、そのなかに自分の場を見出す道なのだ。一枚のカンバスにいかなる芸術的特質があろうと、それは、物事の核心に迫るという目的に向かって努力していく上での、ほんの副産物のようなものでしかない。
(P249)

突然、脳味噌のなかの配線がショートするのが感じられた。きっと泣き出すんだ、と思った僕は部屋の隅に逃げ込んで両手で顔を覆い、涙が出てくるのを待った。でも何も出てこなかった。しばらく時間が過ぎた。と、奇妙な音が、痙攣のように喉から吹き出してきた。さらにしばらく経って、僕はようやく、自分が笑っていることに気がついた。
(P317)

決して幸せというばかりの小説ではないが、さわやかな読後感。その理由の一つはきっと(作中で何度も示される)主人公が現在も生きているという事実なのだと思う。

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)