志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』
新潮文庫。古本。ちまちまちまちま、数ヵ月かけてしまった。ようやく読了。短編集。
「城の崎にて」だけ国語の教科書で読んだことがあって、当時もあんまりピンと来ないなあと感じながら定期試験には「死へのなんちゃらかんちゃらがどうのこうの」とかわかったような顔して書いてたんだと思う。その著名さと、自身が抱いた感想のギャップ、違和感はいまでもそれなりに残っている。そして、いま読んでもやっぱりつまらなかった。
とてもつまらなかった。どの短編もつまらなかった。いだきつづけた感想は概して「なにスカしてアンニュイ気取ってんだ」というのと「あんた自身のことや身辺の事情に関しては別に興味ないですから」の2点。
私自身が今回つまらないと思ったからといって、長らく読まれ続けてきているからには、私に理解できていないだけの価値があるに違いないのであるから、そのへんについて考えてみる。古典にふれることのメリットは、こう判断できる点につきると思うし、つまらなかろうが徒労ではないという保証だけが私にその本を通読させる動機となる。
文学史的な立ち位置ということについては、Wikipediaを鵜呑みにする以上の理解をすることが現時点で私にはできないのでいいともわるいともいえない。彼という存在があって今の日本の文学がある部分はきっとあるのだろうという、ひとまずそれだけ。
ということを書こうとずーっと思っていて、遅々として進まない読書を続けていたのだけれど、後半三分の一くらいは、少し面白く感じ始めていたと今となっては思っている。ややこしいが。
読みながら角を折っていたページを書き写しながら考える。
自分は何と云っていいか解らなかった。眼前に佐々木の苦しそうな様子を見ると佐々木も可哀想だ。実際佐々木はイゴイストではある。然し決して不愉快なイゴイストではない。自分のした事に責任を負おうとして普通なら三四人も子供のあっていい年まで独身でいて、前を忘れず心からの愛を注ごうとしている。それは悪い感じはしない。然し何しろ女がそれを承知しなければそれはそれまでと云うより仕方がないと思った。然しそうも云えなかった。又そう云ったところでそのそんなの従順な弱い性質を知りぬいている佐々木がそう思えないのは無理なかった。しかも自分には感じられない強さの慾情が彼にはある。自分はそれで、何と云っていいか分からなかった。
(「佐々木の場合」P22)
なんつうか、グダグダに未整理のまんまで言いたいこと言った、みたいなブチブチの文章で、読んでるときはイラッとしながら、今読み返すとこれはこれで、語り手の戸惑いに率直な文章といえなくもないけど、そのまんま発表しちゃうのすごいな。
良人は細気味が大概それを素直に受け入れるだろうと思った。然し若し素直に受け入れなかったら困ると思った。その場合自分には到底むきになって弁解する事は出来まいと思った。
(「好人物の夫婦」P46)
まさかの「〜と思った」三連発。
仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している。
それは秋らしい柔らかな澄んだ陽ざしが、紺の大分はげ落ちた暖簾の下から静かに店先に差し込んでいる時だった。
(「小僧の神様」P114)
冒頭、粛々と簡潔に説明を済ませる感じ。
伊豆半島の年の暮だ。
(「真鶴」P152)
これも冒頭、美しい言い切りの入り。
が、事実は僕はやはり薫さんを恋していた。只それを意識に上らせる事がどうしても出来なかった。これは臆病といえば臆病だが、人間はそれでいいのだと思う。時には人妻を好きにならぬとはかぎらない。然し好きは好きでも、それ以上に自分で嵩じさせないのが人間の運命に対する智慧なのだ。
(「冬の往来」P206)
妄想モヤモヤ草食系ボーイズトーク、で片付けるのはかわいそうか。このお話がいちばん面白かったかも。
彼は女が奈良に来た事に何かしら自分のいる土地故という気でもありそうな気がしていたが、お清のその顔を見ると、それが自分の馬鹿々々しいイリュージョンだという事を想わされた。
(「瑣事」P218)
自分の妄想に気づいた醒め醒めボーイズトーク。「気でもありそうな気が」ってアリなんか。
「病気でも悪いのかしら?」
「私が道楽したんです」
母はそれには答えなかった。
(「痴情」P244)
にやにやする会話。
以上、ここまで書き写しつつ、すっかり冒頭の毒気が抜かれてしまった。読んでいて面白くはなかったけれど、今おもえばそれほどひどい時間だったわけでもなさそうだ。
という読書があるのだということと、文章を構成するにあたってあまり神経質にならないほうがいいのかな、みたいなことを心の内にとどめておくことにする。
- 作者: 志賀直哉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/04
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