カバーってよいね

クラムボンの『サマーヌード』と、椎名林檎の『スピカ』が染み過ぎて困る。もともと「ふつうにすきな曲」程度だったのに、カバーでがつんとやられてからオリジナルを聴き直すとすんばらしくて、「かなりやばく好きな曲」になった。
違った角度、違った意味、違ったイメージを抱くことができた瞬間にばぁーっと眼前が開ける感じだった、のだと思う。例えば男声→女声、女声→男声となるだけで、同じ歌詞でも違った意味を持つわけで、演者が意図するにせよせざるにせよ、そこにはオリジナルと違った解釈が必ず介入する。解釈とは言わないまでもフィルター。東京事変がライブでバービーボーイズを演奏する前にMCで椎名林檎が「プロのミュージシャンがカバーをするときには創造性がなんちゃらとか言われるけれど、これからやるのはコピーです」みたいなことを話していた。オリジナルを知らない自分としては何とも言えないのだけれど、きっとあれだって、コピーと言いつつ東京事変のフィルターだったんじゃないかなあ。どんなに似てても似ていなくても。
こういったこと、今さら当たり前すぎるほどで、例えば演劇で既成脚本を上演する際には必ず「解釈だ、解釈だ」と言っていたのに、音楽に関して今までそういった意識を持っていなかった自分に驚いた。あー、だめだ、心の毛穴がつまってる。
世の中の色々あれこれのカバーを、ただの劣化コピーと断ずる前に、そういった聴き方見方感じ方ができないか、と、ちょっとだけ考えてみるとより世の中は楽しいのかも。