できるだけもたないようにするために

佐藤可士和の超整理術』の、もっぱら前半部分を読んでから「捨てる」勇気が少しずつ身についてきたような気がしている。「いつ使うかわかんないものにまみれたうえ、それもいざ使うとなったときに何があるかどこにあるか把握できてもいずにいるくらいなら、多少のリスクを背負ってでもスッキリした環境で今を有意義に暮らした方がよい」みたいな考え方に強く強く強く同意した自分は年末に会社のデスク周りやパソコンの中身を(自分の中では比較的)大胆に捨てることができた。自宅に関してはまだあまり手がついていないが、やる気はだいぶ上がってきている。
数年前から「シンプルな暮らし」にそこはかとない憧れを持っていたのを、さらに背中をもう一押しされたのだと思う。必要最低限、しかし純度の濃いものを吸収すること。摂取すること。できるだけもたないこと。そして身軽なこと。人生は有限で、しかも思っていたよりも短めっぽいので、ストイックなまでに楽しまなくては勿体ない。
一方で、最近ジレンマを感じている。やれ広告だウェブコンテンツだなんだというものたちを「作る」側にいたいと自分が強く願っている以上は、多くの受け手・読み手の気持ちをわかっていないといけないわけで(広告はコミュニケーションなわけだから)、まっとうなふつうの消費者であることを忘れてはいけないし、そのような生活者たるべきである。広告の勉強をしていると特に各所で言われる。けれど俺は現代日本の、というと大袈裟だけれど、とにかく世の中くだらなくて無駄で知らなくていいことが多すぎる。たとえばテレビは基本的に大嫌いだけれどもふつうの人はテレビを見るのだろう。何時間もだらだらと。そんなのは本当は俺はいやだ。でも見なければいけない、のか。ジレンマ。有限な人生で。
しかし、と思う。そもそも天性のアンテナとか感度とかを有してるわけでもない俺が、純度の高いものだけをハナから吸収するというのは現実的ではないわけで、だとすれば方法としては、とりあえず多種多様ごちゃごちゃっと吸い込んだ上で何を残すかという判断を行なうということになる。
つまり、俺は消費者としては至極まっとうに生き、消費生活を営む。場合によってはふつうよりちょっと多いくらいの吸収をする。で、その後にふりわける。となれば、俺の俺たる個性や強みはその部分のフィルター。ふるい。物差しである。『思考の整理学』ではそれを価値観と呼んでいたと思う。自分の物差しをもつことの大切さは、この部分にある。そして残す。それらはおそらく抽象であったり、断片であったりするだろうけれど、とにかくそのままどっつり身動きが取れないほど過剰な在庫を抱えるでもなく、かといってなんにも残ってまへんということにもせず、必要最低限の、純度の高いエッセンスだけをしっかりと。そうすればきっと、ジレンマにはならないような気がするのだ。体験はする。けれど贅肉はつけない。エッセンスだけを残して、身軽に。谷山雅計も「感覚を覚えておくことの大切さ」みたいなことを言っていたような気がするなあ。
さてさて、じゃあその俺の俺たる物差しを、どうやって作ってゆくべきか。を、またぼんやりと考えることにする。ロジックが一つ進んだ。よし。淡々と。