裏くさかカバン展

D&DEPARTMENT HOKKAIDOで開催中の「裏くさかカバン展」に行ったのだった。

北海道の革製品工房・日下公司と、店舗のくさかカバン店。その通常ラインアップにない、主に自家用のアイテムが並ぶという。なんてわくわくする企画だろうか。

目が留まったのは目玉だという、端材を利用した「床革の小箱」。迷った。超迷った。最高に魅力的なプロダクトなのは間違いない、間違いないのだがしかし私は、この小箱をどのように使おうか、瞬時にイメージがわかなかった。イメージというか実際的に用途が思い浮かばなかったのである。

通常の商品に比べれば破格の安さ。しかしながら私にとってホイホイといくつも買えるという値段ではない。というより、値段というより、買っておいて使わないというのが私はすごくいやなのだ。文房具でもそうなんだけど、やっぱり「使ってこそ」という思いが強い。

店員さんと話をしながらしばらく頭をフル回転させ、悩んで、悩んで、悩んで、結局、おぼろげながら「自宅のここに置きたい」というイメージができたのと、あとはもう、えいやという感じで、買った。買っちゃった。うへへへへへへ。

日下さん、前職のときに取材させてもらって、その後しばらくしてSNSでつながって、SNS上では細々とやりとりがあるのだけれど、ぜんぜんお目にかかれないでいる。札幌なんだから会いに行こうと思えばすぐに行けるのに。不義理ですみません。いつかエゾシカのぬいぐるみを我が家にお迎えしたいと思っています。

今週土曜、10/21まで。

ペディアにトッピングを

知識、まあ雑学とかトリビアも含めて、それらを頭の中にため込んでおくことって「かつては有用だったけど今はネット検索に取って代わられて、さして重要じゃないこと」みたいに評価されがちじゃないですか、昨今。昔からある言葉でいえば「頭でっかち」っていうか。博覧強記まで突き抜けられればそれはそれですげえんだけど、そこまで達することのできる人はごくわずかなわけで。

けれど、そのため込んでいる知識に、どんな小さなことでもいいから「自分の考え」をくっつけておくことができれば、そのうえでため込んでおくことができれば、それはなにかに取って代わられない自分だけの財産として、ただの知識の数倍の価値になるのではないかな。

と、中途半端に知識ため込みたがりマンの私は思ったのだった。自分の頭で考えよう。ふりかけ感覚でもいい。

子供服の際限

子供服を買っている。子供がいるので当たり前だが、買っている。本当はあちこちを頼って譲ってもらったりして間に合わせることもできるのだろうが、基本的に買っている。買うのが楽しいからである。

子供服は安い。大人の服から見ればとても安い。なのでついつい、あれもこれもと買いたくなってしまう。北海道弁でいえば、買わさる。大人の服と同じか下手すりゃ高いような、高価なブランドもの子供服には手を出していないが、お祝いとしていただいたそれは、やはりかわいい。

切り詰めようと思えばもっといけるはずだが、親として一生に一度あるかないかのこの機会を切り詰めて終わるのもどうなんだという思いもある。子供が自ら着たい服を主張しない、1歳児の今のうちに。キャラクターものだとか、いかにも男児の好きそうなカラーリングのだとかを選ばない、今のうちに。

納得のいく落としどころを見失ったままで、またズボンを一本買ってしまった。夫婦でにやにやしている。子供服は尻。

好奇心おばけにはなれない

なにごとも好奇心がだいじだよねーという風潮があって、そんなにあれこれ興味をもつことのできない私はいつも引け目を感じている。興味のないものに対してはわりと冷淡でいられるたちだが、そうもいかないとき、つまり、べつに興味のないものに対して「興味をもて」と強制されるのがとにかくつらい。

いろんなことに興味をもてる人はすごい。でも私は好奇心おばけにはなれない。

ずーっと感じてきたその引け目と折り合いをつけるアイデアとして「質問をする」ということを思いついた。興味を強制するのではなく、質問を習慣化する。それが興味のあることであればもちろんだが、興味のないことであっても、自分の興味とは無関係に、話を聞いたらとにかく質問する。気持ちの強制がしんどいのであって、行動の強制は問題ない。

そうすれば、興味がない話でも楽しく面白くすることができるし、もしかすると興味が出てくるかもしれない(結果的に興味が出なくても構わない)。少なくとも「どうでもいい」ことは減り、生活の解像度は上がるだろう。そのうえで、興味のあることにフォーカスし、興味のないものはばっさり切り落とした日々をおくればよろしい。

質問する内容については、Rockaku森田さんの著書にあった「取材時の最低限ヒアリングポイント」を参考にしようと思う。

ビールはオフのスイッチ

きのうの昼で風邪薬が終わったので、夜に久しぶりの飲酒をした。薬が終わったからというのは口実で、以前は酒を飲むのに口実なんか要らなかった。

薬がなくても飲酒の回数は減った。飲み会だとか、外に飲みに行く機会はもともと少ない生活ぶりだけれど、自宅での晩酌はほぼ毎日だったのが、今では多くても週に一度か二度か、そんなところ。そのためすっかり酒には弱くなってしまったようで、グラス2杯のビールでかなりいい気分になる。

息子はもうすぐ1歳半になる。息子が生まれてすぐはわりと飲んでいた。息子はただただすやすや眠り、乳を吸うだけだったから。私が酒を飲まなくなったのは息子が体調を崩したりすることが増えてきた、ここ半年から一年のあいだぐらいである。家にいて、いつなにがあっても対応できるような態勢でいたいし、いなければならない。緊張感がある。大人だけで生きていれば、最低限、自分自身の世話さえできていれば充分りっぱである。でも、子供がいるとそうはいかない。

決して、妻に飲むなといわれているわけではない。妻はむしろ、飲め飲めといってくれる。ビールを買ってくれる。たいへんありがたい。妻は酒を飲まない人だが、なぜか私の飲酒には昔から寛容である。車の運転もできるというか運転経験は私より豊富だ。最近私が酒を飲まないのは、私自身の選択によるところが大きい。

飲酒をすると、なにもしたくなくなる。飲酒をしていてなにかしなければならないというのは、つかれる。飲むならなにもしたくないし、なにかするのなら飲まなくていい。今、私は、なにもしなくていい状態をつくるのが難しい。つかれたくない。これが今現在の偽らざる実感である。歳を取ったのかもしれないが、それならそれでしかたないと思う。

そのへんぜんぶひっくるめて相変わらずビールが好きです。