代弁ではなく

いまのお仕事はもっぱら、誰かの言いたいことを代弁することである。ときにそれは、目的から逆算して、言いたいと気づいていないことにまで踏み込まなければならない。たしかにそれは私にしか書けない言葉であるかもしれないし、価値の再発見や切り口の提示が私の仕事(の値打ち)であることに違いはない、が、その言葉の発信者は、少なくとも表向きに、生々しくいえば発言の責任をとるのは、私ではない。だからこそ誤字脱字文法の間違いで発信者に恥をかかせてはいけないと思って、口うるさく口を挟み赤字を入れる。「誰もそこまで気にしないって」というのは、言ってもらうぶんにはいいが、原則私から言えることではない。もちろんプロとしての線引きと、私の精神衛生を維持するレベルでの限度はあるが。
で、そんなお仕事のことを楽しくやらせていただいているそれはそれとして、そういうお仕事をやらせていただいているからこそ、だれの代弁でもない俺の言葉を書く、という漠然としたコンセプトに、焦がれるときがときどきある。ときどき?いや、常に頭の片隅にくすぶっているのかもしれない。完全なる俺オリジナル、なんてものがありえないのはわかっているけど、少なくとも文責が完全に自分にあるということ。多少のアラや間違いは、俺が「別にいいよ」って言えば別によくて、それを味だと開き直っちゃうのも俺。D.I.Y。セルフビルド。ポケットの中に転がしておいていつまでも手で触っていたくなるような文章。そんなものを書きたい。
そういった意味での好き勝手は、読み手へのサービス精神と矛盾しないはず。その匙加減も、もちろん自由。読まれたいという気持ちはやはり断ちがたい。断つことがいいかどうかも正直わからない。決断は人に委ねずできるだけ自分ですることが成長になる。自分の機嫌は人に委ねずできるだけ自分で負うことが心地よい毎日をつくる。
ま、なんでもバランスですけどね。
1年半も前に買った尾崎放哉全句集(ちくま文庫)を、職場の席の傍らに置いて、ちびりちびり大切に読み進めている。まだ半分もきていない。読んでいて楽しくて、でもぜんぜんおぼえていない。うれしい。