その赤ペンは何のため?

「文章に赤を入れてくれ」と依頼されて赤ペンを手に修正を入れるとき、「正しくする」ことは比較的簡単だ。それはそれで大切で、軽いことではないけれど、建設的な作業が比較的容易という意味において。
ところが「魅力を増す」ために赤を入れるのはとても難しい。私はほとんどやったことがない。やろうと意識したこともなかったかもしれない。というのも「正しさ」と「魅力」とを、きちんと分けて考えていなかったからだ。もちろん、常に分けられる、というわけでもないのだが。
私はふだん、おそらくもっぱら「正しくする」ために赤を入れている。それを求められているケースにおいては、それでよい。ただ、こと「人を動かす」ことに主眼を置かれた文章においては、正しさなんて、それほどの役には立たないのかもしれない。
きのう「赤を」といわれた文章が、既にとても魅力的で赤を入れることができなかった。「正しく」はできたかもしれないが、私がどう触っても「魅力を損ねる」ことにしかつながらないような気がして、けっきょく触れなかった。
そもそも自分じゃない人が書いた文章の「魅力を増す」ための修正って、どう考えればよいのだろう?まだわからない。課題。


ところで、自分の書き落とした文章に、自分はどうやって向き合っているだろうか。