武田邦彦『偽善エコロジー』

幻冬舎新書081。書店でそれなりに積まれているのをチラ見していて気になって、ちょっとおいて購入。前々から「リサイクルだなんだっていって、本当はかえってムダだったりすんだぜ」って話はそこかしこから耳にしていて、で、そこんとこどうなのよっていうのを知りたかったところだった。通勤地下鉄でサラッと読了。以下、思ったこと。
著者が「こうすべき」と主張する際に念頭に置かれているのは「地球環境」というよりも「人間社会の生活」ということだ。経済的に回るとか回らないとか、人間にとって有害か無害か、といったような。そこでまずちょっと違和感がある。「いや、人間がどうとかじゃなくて、もっとでっかい、地球のことを我々は大切にしようとしてエコだのなんだのやってんじゃないの?」と。そして同時に「もっとでっかい、地球のこと」って、何だ?と思う。人々の想像力は、その守るべき何かを具体的に描けているだろうか?と。
つまるところ、そのへん全然ツメて考えずに、なーんとなくざーっくりと「大切みたいだから、大切だよねー」としか考えずに行動しているのではないか?と気づかされる。子どもの世代?孫の世代?もっと先のことなんて、本当に考えが及んでいるのか?本気で守りたいと思っているのか?10000年後の子孫に?人類以外の地球に?
著者の指摘が正しければ、私を含む多くの人々はごく一部のビジネス上手な方々のカモになっているだけであり、それで環境(この指示するものすら既に曖昧である)がよくなるものならまだしも、悪くさえしているというのだからたまらない。なんとまあ、何の根拠もないことに気分を作られ乗っからされて、それに気づきもせずに盲従していることか。自分が情けない。
しかし盲従ということで言えば、本書を全て鵜呑みにすることも同時に危険なのであり、本書を鵜呑みにするだけならばそれは官公庁や企業のことを鵜呑みにしているのと同じ態度である。それでは何も変わらない。だから本書に対しても私は懐疑から始めなければならないのであるが、全てのデータと理論の裏を取るやる気も体力も私は欠いている(所詮そんな意識しかないのだと自覚する)。
大学時代の宗教学の教授の話を思い出した。「日本で一番高い山は何ですか?…富士山。それ本当?君、見たの?自分で測って確かめたの?」つまり、人間はどこまで突き詰めていっても最後は「信じる」ことをしているという話だった(と思う多分)。確かに世の中の全てのことに対して自力で裏を取るなんてのは現実的ではない。
じゃあ一体全体我々は何を信じてどう自らの行動を決めていくべきなのか。今のところ私は「根拠となる事実やデータや理論」と「それを言っている人がどんなことで主たる収入を得ているか」で判断したいと思っている。
さて本書では、官公庁やら企業やらが如何にいい加減かってあたりが書かれていて、そのへんの本当のところは知りたいところ。官公庁や企業側の主張には根拠となるデータが全然ないってところとか、環境利権のあたりとか。著者が別の著書で明記しているのかもしれないが、とりあえず本書がもっともっと売れて読まれて、(それがたとえ最初は本書への盲従だとしても)人々が現在のエコだ何だの空気に疑問を抱き違和感を覚え、それをカタチにして訴え始める動きがどーんと起こればいい。「御社ってCSRとかでエコとか言ってるけど、胡散臭いから御社とは取引しないよ」なんてビジネスマンお客さん消費者がどんどこ増えればいい。まずは。そうして官公庁とか企業とかが、表立って反論せざるを得ない状況になればいい。そのとき私は、それらの主張を冷静に見比べて判断できるように今のうちから準備しておかなければならない。おかしいことをおかしいと、しれっと言えるように。小さな声でも発言したほうがいい。ネットの世界の隅っこの小さなブログにエントリするだけでも。

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)