そうかたくなるなよ

わたしの書く文章はかたい。人からそのように言われたことはあまりないけれど、自分ではそう感じている。なんかかたいんだよなあ、と。
文章のかたさ・やわらかさというのが正直よくわかっていない。あまり難しい言葉を使わないだとか、かなにできる部分はかなにしていく(このエントリみたいに)とか、書き言葉よりも話し言葉のニュアンスに近づけるとかで、ある程度やわらかくなるものなのかもしれない。けれど「かたさ」と「かたくるしさ」は微妙に異なるだろうし、「平易」であるからといって「やわらかい」とも限らないだろう。ついでに「ゆるい感じ」というのも実はあまりわからない。
このへんの文章(に限らずだけれど)の印象を表す語はとっても曖昧で、まあ印象なのだからしょうがない部分もあるのだけれど、もうちょいどうにかならんもんかと思っている。グラフィックでお仕事をしている方々などそういった曖昧な物言いにふりまわされることが多いと思うのだけれど、文章も同じだ。程度こそ違えど。結局は「好み」の問題になってゆくと前田知巳が言っていたと記憶しているのだが、彼でさえそう言うのだから、きっとそうなんだろう。
さて、文章のかたさの話。今までわたしはそれを言葉の選択や質感、つまり「いかに書くか」の部分に大いに起因するのだと思っていたけれど、それだけではないんじゃないかと。わたしの場合、たいていそれは、できるだけ正確に記述しようということにとらわれすぎていて、ほんらい必要のない説明までくどくどとしてしまうことによるのではなかろうか。くどいのとかたいのとは微妙に異なる気がするけれど、たぶんそうだ。「何を書くか」。しかしながら話題の硬軟とも違う部分、文章の論理構造のパート。そこで気持ちの良い抽象化と大胆な省略とをあまりうまくできていないから、読み手の中で広がってゆかないのではないだろうか。書いた文章を読み手として客観的に読み返しているつもりで、それが「正確か否か」という視点にしかなっておらず、読み手の生理を忘れてしまっているのではなかろうか。わたしは。
howの遊びは忘れずに、そろそろwhatで遊びたい。と、書きながら徐々に自問自答自省。このエントリは再読せずに。