デジとアナ

高城剛曰く「デジタルはアナログに絶対に敵わない。人間はアナログなんだもん。」
とはいえテクノロジーの暴走進歩を俺がどうこうするでもなく、乗っかるしかないのが現状なわけなので
こうなったら少なくとも自分だけでも、アナログとデジタルの往復運動を兎に角意識的に頻繁に行うよりほかないのかもしれないなあ。
その往復運動が自己目的化してしまう?

≪ゲリゲ≫---
人間は本当にアナログだろうか。
アナログで有るということは、
連続性を持つ物事を切り刻まず、
無限の中間態を余さず認識するということだと思うけれど、
それはあくまで人間の持つ可能性の一つであって、
人間の本質ではない気がする。
むしろ、人間はデジタルをアナログと併用することで
無意味なエネルギー消費を自然に回避しているように思えるし、
そう考えればデジタルとアナログの対立という構図は、
少なくとも人間にとっては虚構であるようにも感じる。
以上戯言。

≪おれ≫---
「アナログ」を「生身の肉体」的な意味で漠と使ってた。失敬。
さて、[世界を分節して意味化→解釈・理解]という意味では確かに人間は日々デジタル化を行なっているのだと思う。人間=アナログという理屈は短絡だし、デジタルとアナログは対立もしないのかもしれない。
しかし人間がデジ・アナをうまくバランスよく併用できているか(または今後も併用でき続けるか)という点には俺は悲観的なのだよなあ。「ほっといても振り子はアナログに振れてくるだろう」みたいな楽観視はできない気がする。仮にアナログは人間の本質ではないとして、しかしアナログであるという可能性を(意識が、または社会が)許容できなくなったとき、それは何だかイヤだ。テクノロジーにはその力があるんじゃないか。世界を語るつもりはないけれど、少なくとも俺自身の意識のレベルで。
「そもそもデジタルとアナログという二分法がデジタル的」とかいう議論は屁理屈?メタメタ。