宣伝会議の文房具記事/トラベラーズノートの世界観

宣伝会議 2012年 9/1号 [雑誌]

宣伝会議 2012年 9/1号 [雑誌]

雑誌『宣伝会議』の、たぶん一年でいちばん売れる9/1号を読んでいたら、たまたま文房具に関する記事があってピクッとなった。伊東屋の方、ミドリ(デザインフィル)の方、文房具カフェをはじめた会社の方による鼎談。文房具はいっときのブームっぽい空気を、過熱しすぎるでもなく縮小することもなく、ずいぶん長いこと維持し続けている気がする。なんだかんだで歴史の長さと、品数の多さと、世代を問わずみんな一度は必ず通過している道具群だからだろうか。おそらく工具や調理器具よりは裾野の広い世界。等々力ベースでビートたけし相手にいつものペースで熱弁をふるう文具王、を成立させるガダルカナル・タカってやっぱりすげーなーって思う今日この頃である。
さて、概ね楽しく読んだ記事のなかで私がどうにも引っかかったのが、ミドリの「トラベラーズノート」およびそれらを取り巻く「世界観」の話。
私はトラベラーズノートのことが、プロダクトとしてはとても好きだ。けれど自分では買ったことないし持ったことないし、いまだに自分のものとしてお迎えする気にならない。なんでなのか自分でもよくわかってなかったのだけれど、この記事の「世界観の演出が大切、云々」というお話を読み、紹介されたトラベラーズノート専門店やトラベラーズノートリーフレットの写真を見て、ようやく合点がいった。
カッチリ閉じている世界観に押しつけを感じてしまうのである。「なんかそれっぽいタブロイドのようなリーフレット」で、正直しらけてしまうのである。
ひとつには、その世界観が「プロダクトから導き出されてきたもの」というよりは「その世界観ありきでプロダクトが導き出されている」ように見えるということ。どうにもその世界観からは、それが一生懸命に演出されればされるほど、強く借り物のにおいがして仕方ない。
もうひとつは「誰が言うか」という話。その世界観をメーカー自身が発信しているということ。例えば伊東屋や文房具カフェが、トラベラーズノートを取扱ういちお店として、いちチャンネルとして、製品の世界観を編集・表現するのなら、わかる。そうやって「トラベラーズノート」の世界観を発信するなら、わかる。けれど、メーカー自身が、デザインフィルがそれをやってしまうと、それだけが正調となってしまわないだろうか。なまじその世界観が「旅」だけに、そこに息苦しい不自由さを感じてしまうことのギャップがありはしないだろうか。私の中に「メーカーが語ることはプロダクトそれ自体にとどめてほしい/使い方やライフスタイルではなく」という線が引かれていて、それを脱せていない、ということかもしれないけれど。
なんかもうトラベラーズノート批判みたいなアレになっちゃって申し訳ないけれどプロダクトとしては好きなんだよほんとに。いろんな人のトラベラーズノートの使いこなしも素直に素敵だと思うし、深く考えずに勝手に使えばいいんだとも思う。ただトラベラーズノートの売られ方においてのみ、ざっくりいえば私としては「演出されすぎるとしらけちゃうんよー」っちゅう話。私が最近のモレスキンの多角展開にしっくりきていない気持ちの根っこも、そこにある気がする。
STALOGYはどうでしょねー。札幌はコーチャンフォー美しが丘店で買えるみたい。はやく現物みてみたい。