車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』

文春文庫。ときどき頭をふとよぎる「これを寺島しのぶが演じたのか」という考えを振り払いながら読んだ(苦手なんす)。地下鉄でちびりちびり+眠れなかった金曜の朝に最後いっぺんに。なんだか今年、関西弁の出てくる本ばっかり読んでる。
タイトル。すごくいいタイトル。ぜんぶ言っちゃってるようで(だって「未遂」まで言っちゃってるのだ)、それでぜんぜん問題ない構造になっているし、ぜんぜん問題ない結末になっていて、ぜんぜん問題ない小説になっている。「恋愛小説」ときっぱり分類して理解することは狭いというか危険というかあまり意味もない気もするが、やはり読後の切なさったらなくて私は。ラスト10ページの鮮やかさと、残す余韻のすばらしさったら。

私ははじめてアヤちゃんと口を利いた。本来は私のところへ来る筈のない見知らぬ男が、物のはずみで私のところへ顔を出し、不可避的にそうなった。むろん、こんなことはよくある瑣事である。が、これは危ういことだ。必要があって口を利くだけならどうとおうことはないが、私はある温もりを感じた。
(P54)

二十五か六に見える女と三十四歳の下駄履きの男が、ただ黙って、横長の座席に並んで坐っているだけだった。少なくとも、電車の中の人たちにはそう見えるはずだった。
(P255)

事前知識はあんまり入れず読んだのだが、これも私小説ということらしく、まあ、主人公は色々あるけどそもそもインテリでして、けれどインテリの内省と、外の世界との摩擦が、読んでいて心地よい。

人の生死には本来、どんな意味も、どんな価値もない。その点では鳥獣虫魚の生死と何変わることはない。ただ、人の生死に意味や価値があるかのような言説が、人の世に行われて来ただけだ。従ってこういう文章を書くことの根源は、それ自体が空虚である。けれども、人が生きるためには、不可避的に生きることの意味を問わねばならない。この矛盾を「言葉として生きる。」ことが、私には生きることだった。
(P9)

山根は「池の底の月を笊で掬え。」と言いに来たのだ。が、それも、つまりそれだけのことだった。この言葉を私に告げることによって、山根が命を失うわけではなかった。そんな言葉が、私の骨身に沁みるわけがなかった。
(P182)

時代設定が昔(といっても俺が生まれる少しだけ前の話)だとはいえ、こんな言葉遣いの小説が、でも初出は平成なんだよな。びっくりしますわ。いやあすごかった。凄かった。おもしろかった。たぶんまた読むのでとっておく。
しかしまあ

来園者の半数以上は、生殖期の盛りを過ぎた男女が、自分たちの生殖した生物を連れて来ているか、あるいはさかりの付いた若い男女が、これからの生殖にそなえて、毛物や鳥、爬虫類たちの腥い貪食と生殖の臭いを嗅ぎに来ていた。
(P240)

「動物園」の描写で、なにもここまで言わんでもと、笑。

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂