太宰治『走れメロス』

新潮文庫。おなじみの表題作を含む短編9つ収録。国語の教科書に載ってた小説って、文庫本などで改めて読むと、そのあまりの短さに(そして、その短い物語をいかに時間をかけて何度も読んで、そのうえテスト対策なんかもしていたことに)気づかされ、驚く。


仮名遣いなど読みやすく改訂されていると思うのだけれど、想像していたよりもずっと読みやすくて、漢字/かなの使い分けや句読点の打ち方など、とても自然、自由で、するすると。もっとカチコチだと思っていた、という先入観。

走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いているのに気づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌っていたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創った唯一の詩だ。なんというだらしなさ!頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あっ!
(「ダス・ゲマイネ」P40)


太宰治という人物をよく知らないけれど、小説なのかエッセイなのかよくわからないほどの自身(っぽい)ことの織り交ぜ方は、これが私小説というやつなのだろうが、なんというか身を切りながらというか、だからこそ共感できるけれど、そこはマネできないなあ、いやいや、やはり物書きたるもの「生き様」なのであろうか、などと、ぼやぼや。

私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経てきた。たったそれだけ。藁一すじの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。
(「富嶽百景」P55)

くるしいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、謂わば、新しさというもの、私はそれらに就いて、未だ愚図愚図、思い悩み、誇張ではなしに、身悶えしていた。
(「富嶽百景」P62)


それにしたって収録作品の中では「女生徒」の素晴らしさが圧倒的。どこか抜き出して引用するのもはばかられる(なんなら全部書き写したい)。読むのすごく疲れたけど、それでも読むのを止めたくないすごさ。描写と思弁のころころと転がるあの奔放な文体と、その文体自体が表現するもの。ああ、しびれるわー。やっぱり書き写そう。時間をつくって全文。

食堂で、ごはんを、ひとりでたべる。ことし、はじめて、キウリをたべる。キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る。
(「女生徒」P80)


ところで学生の頃から、「羅生門」の終わりと同じくらい、この一文が好き。爽やか。

勇者は、ひどく赤面した。

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)