『新美南吉童話集』

岩波文庫・緑150-1/千葉俊二編。
新美南吉といえば「ごん狐」。そのくらいは知っているし、それ以外は知らない。しかしながら「ごん狐」がどういう話だったか、よく考えたらぜんぜんおぼえていなくって、読んでもやっぱり思い出せなくて、そんな自分にがっかりした。ストーリー記憶能力はとても低いほうだとは自覚していたものの、こんなシンプルな筋をどうして。何を読んでいたんだ昔の俺は。
でも、2本目に収められていた「手袋を買いに」は、新美南吉作とはおぼえていなかったものの、話はおぼえてた!そうか、当時好きだった話は今でもおぼえているし、当時好きだった話って、やさしい話だったんだなーと思った。いいよ、とてもいいよ、「手袋を買いに」。ちょっと泣いちゃったよ。逆に「ごん狐」のような、やさしいだけじゃない理不尽さをはらんだ童話って、今の自分はとても好きだけれど、当時の自分はあまり好きではなかったのだろうな。
時代の変わり目だったからか、若くして病み自信の命の残り時間を意識していたからなのか、「懐古しつつもそれでも前進」的な、ちょっと寂しい気持ちになっちゃうような作品が少なくないけれど、情感豊かな描写と、愛情たっぷりのまなざしに、ほろ苦くもほっこりと読了した。
気に入った箇所をいくつか書き写しておく。

「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」
(「手袋を買いに」P24)

子供の狐は、町の灯を目あてに、雪あかりの野原をよちよちやって行きました。始めのうちは一つきりだった灯が二つになり三つになり、はては十にもふえました。狐の子供はそれを見て、灯には、星と同じように、赤いのや黄いのや青いのがあるんだなと思いました。
(「手袋を買いに」P27)

二匹の狐は森の方へ帰って行きました。月が出たので、狐の毛なみが銀色に光、その足あとには、コバルトの影がたまりました。
(「手袋を買いに」P30)

何ということか。兵太郎君だと思いこんで、こんな知らない少年と、じぶんは、半日くるっていたのである。
(「久助君の話」P79)

何という生彩のない自分たちであろう。友達の顔が猿みたいに見える。
(「屁」P88)

「わしのやり方は少し馬鹿だったが、わしのしょうばいのやめ方は、自分でいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしの言いたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは決してしないということだ」
(「おじいさんのランプ」P167-168)

いきいきとした描きぶり、今に通じる視点、いっぱいあるけれど、でもやっぱりいちばん好きだったのは「手袋を買いに」だなー。子狐ちょうかわいいよーそりゃお手々もちんちんするよー。最近だめだもう涙腺ゆるくなっちゃって。…これって「はじめてのおつかい」で泣いちゃう先輩と同じ気持ちなのだろうか。

以下、魅力を感じた気づきメモ。

  • 子どもの思考ってそんなに単純じゃないよねということがわかる。
  • ひらがな遣いの巧みさ。
  • 本を読んでやさしい気持ちになれるのはいいよね。

新美南吉童話集 (岩波文庫)

新美南吉童話集 (岩波文庫)