つつましくありたい消費者は

糸井重里が最近(といってもここ一年くらい?)のほぼ日で「消費を楽しむ能力」みたいなことの大切さについて何度か発言しているのを読んだ。コンテンツや商品の作り手・発信者には、受け手としてのプロ的な能力、消費のプロたることが大切だし必要なんだぜ、と。なるほどと思う。例えば女性なんかはそのへんがすごくうまいよねー、と。たしかにそうだなーと、男であるわたしは思う。糸井重里でなくても、広告制作に関する本や講義や言説においてもよく「よき消費者たれ」と語られる。そうだよなーと思う。と同時に、そういった発言を目にするにつけ「ああ、やはりそうなのか。そうなのだよなあ。」と、なんともいえぬ焦燥のような、絶望のような感情がわきおこる。
わたしは、消費者としての貪欲さが欠けているほうだと思う。「もっとおいしいものが食べたい!」だとか「もっと面白い体験がしたい!」だとか、強く思うことが昔からほとんどない。余計なものはできるだけ買いたくない。テレビとか流行とかにあまり興味がない。極論を言えば、他人のことにあまり興味がわかない。仮に今、自分が知っている世界の外側にもっともっとすごく楽しい世界が待っていたとしても、そこまでたどり着くまでの手間がめんどいというタイプだ。現状満足型である。決して物欲がないわけじゃないし、ときにはコンビニで新商品を衝動買いしたりもする。映画や演劇をときどき観に行ったりもする。けれど、わたしは決してアクティブな受け手ではないと思う。お金もできるだけ使いたくない。
そしてこのことが自分にとっては重くのしかかる。すなわち「消費者としてこれほど非アクティブな自分などが、コンテンツを作ったり、発信したり、なまじ大勢の人たちの気持ちを動すことなどを、職業として志す適正や資格はないのではないか?」
だからといって「アクティブな消費者になりたい」などとは思っていないし、思えない。以前に書いた「遊んでる奴のほうがいい」みたいな話とも似通っているのだけれど、多くを求めず、つつましくやるのが自分にとっては自然で性に合っていると本気で思っているのだ。世の中、どうでもいいことが多すぎる。
自分としては「わたしの消費や受け手としての態度は、たしかに非アクティブである。けれどわたしは、これが楽しいと本心から思っている。そして、わたしみたいな人間だって世の中にはいるはずだ(たぶん)。だから、こういった消費者・受け手の気持ちがわかる作り手も、きっと必要とされるに違いないはずだ(たぶん)。」といったあたりで、納得しようかと思ってはいる。けれど、でも、「広告なんかに惑わされずに、本当に自分に必要なものを買いたいものだ。」と本気で思っているいち消費者たるわたしが、例えば「広告を作りたい」と思うのって、やっぱり歪んでるんじゃないのかなあ?と、モヤモヤしている次第です。
なんだろう。作り手とか受け手とか、アマ/プロの線引きとか、そのへんの理屈がごっちゃになってるんだろうか。うーん、つかもう、うじうじ言ってねえでとっとと飛び込めよって段階のような気もするしなあ。もやもや。前にも似たような話をどこかでしたか書いたかしたような気がするけど、現在進行形のモヤモヤとしてエントリ。