家族と仕事

年末年始は家族といっしょにいる時間が長くて、それも「あっちの家族と」「こっちの家族と」といったようにその都度フォーメーションの変更があった。どれも家族なんだから別に緊張することもなくて、それはとってもありがたいことなんだけれども、だからといってまったく同じテンションというわけでもなく、それぞれの場面でそれぞれの役割を果たすことにはなる。自然となる。どれが本当の自分かっていえば、どれもきっと本当の自分で、最も素なのは今現在の自宅にいるときの自分だとは思うけれど、かといって他の自分は偽りの自分かっていうとそういうわけでもないだろう。と考える。これが平野啓一郎氏の言うところの「分人」ってやつなのかなあ。読んでないので読んでみたい。
同じ職場でいっしょに働く人々のことを「家族」と見なす考えにはどうも賛成できない。家族が自分の意図とは無関係にどこまでも受動的に家族であるのとは違って、職場や働く相手の選択はもっと自由だと思うから。もちろん家族だってどうしてもダメなときは縁を切ることもできるし、逃げ出すべき局面もあると思うが、たいがいよっぽどのことだし、職場や働く相手に関して家族並みに拘束力が強くあるべきではないと思う。家族では重すぎる。
家族の重みは大切なことをたくさん与えてくれるが、そんなにたくさんは要らないのである。

べたべたした愛情より、たよれる人がほしいのさ、犬もね。
(2014.1.17 ほぼ日「今日のダーリン」)