マフラーにインするもの、それは

3月に入り、卒業式のシーズンとなりました。今春卒業を迎えられる皆様、おめでとうございます。いま「今春」と申し上げたように一般的な卒業のイメージといえば、やはりそれは早春の風情で、タイミングによっては桜もセット、てなもんですが、札幌圏の卒業式はドロドロの雪景色が仕様です。晴れ着なのにもかかわらず「お足もとのお悪い中」が仕様です。
まだまだ寒いなかで訪れる、北の大地の別れの季節。肌寒いというだけならまだしも時に身を切るほどの寒気は、あたたかな涙を乾かすには少々つめたすぎるかもしれない。しかしながら、その厳しい寒さは、あるものとの別れを少しだけ遅らせてくれてもいる。そのことを忘れてはいけません。あるものとは、いうまでもありませんね。はじめから「マフラーしまい髪」についての話をしているのですよ?


毎年毎年毎年毎年毎年申し上げているように、私は女性の髪がマフラーにインされている有様を、すこぶる好ましいと感じております。ごく控えめに、週刊少年ジャンプ往年の名作を引用しながら表現するとすれば「奈良が靴下を履かせたように、俺はマフラーを巻かせるために1ターン使ってもいい。」といったあたたかな気持ちです。
道行く女性達の「マフラーしまい髪」は千差万別。札幌市営地下鉄東西線に乗っているだけでも多彩なマフラーしまい髪に出会うことができます。その方向性について私個人の好みがないわけでないですが、その点についてあえて述べるまでもないでしょう。正直、どれも実にいい。もちろん道行くマフラーしまい髪をガン見することは憚られることは重々承知の上ですが、自然と視界に入ってしまうぶんにはしかたない。それは避けがたい。避けがたいよろこびです。楽しみにするくらいいいじゃないか!そんなあたたかな気持ちです。


さて、そもそもこのようなことをブログにて表明し始めたのは私の周囲に賛同者が見当たらなかったからだったのですが、なんだか表明するたびに賛同の声が集まるようになってきてとてもうれしく思うと同時に、当時の周囲の皆様におかれましては「なーんだみんなも好きだったんじゃないか、このスケベ!」と思う次第であります。最近はファッションスナップブログ「The Sartorialist」でもこんな記事がポストされ、マフラーしまい髪に国境はないという事実を再確認いたしました。
また先日、Twitter友達のポールさん(@door13)が、マフラーしまい髪研究所なる素晴らしいウェブサイトを立ち上げられました。なんせ写真が撮り下ろし。そして分類法が秀逸なのです。学究的な姿勢をキープしながらも決して恋心を忘れない眼差しには感服の一言です。
さらに先立つ試みとして進行していた模様の、マフモコスナップなるウェブサイト、ならびにプロジェクト。こちらは写真集を電子出版するにまで至ったというから驚きです。出版物に関しては誠に遺憾ながら未見なのですが、購入を前向きに検討中です。


マフラーしまい髪、あるいはマフモコ。その呼び名が含むニュアンスやベクトル、その呼び名を契機として広がる世界には若干の差異が存在するかもしれません。しかしながら、双方に共通する愛はまったく変わらない。普遍的といってもいい。原始的といってもいいかもしれない。マズロー欲求段階説に位置づければそれは「生理的欲求」の深奥に存するのかもしれない。ヒトがヒトになる遥か昔、進化し続けてきた脳の中でも最も古い層に、その愛は端を発しているのではないのだろうか。髪がマフラーにしまわれる有様への愛は。私は、私の、否、私たちの湧き上がる衝動が人間の本質(nature)を根源としていることを、ここに記しておきたいと思います。


卒業を迎えられる皆様、あらためて、おめでとうございます。学舎を巣立ち、苦楽を共にした友と別れることが、つらくないわけがない。ですが、名残惜しんでばかりもいられないのもまた事実です。後ろ髪を引かれる気持ちはよくわかる。その後ろ髪、マフラーにしまってみませんか。そうすればきっと、新しい出会いに向かって力強く、軽やかに歩み出せるはずです。私は、そうやって前向きな皆様を見たい。そうやって前向きな皆様の後頭部を見たいのです。振り向かなくても結構ですよ!