保坂和志『季節の記憶』

中公文庫。2冊目の保坂体験。うん、やっぱり大好き。
鎌倉が舞台で、いちど鎌倉行っておいてほんとうによかったなーと思った。
ここまで思弁的な記述が多く、しつこく理屈をこねてくるくせに、気持ちよくするする読めてしまうのは、会話が多いせいか、物語的な必然性のせいか、風景描写が多めなことによるバランスか、はたまた、くどくなるぎりぎりのところで止めているからか。それとも理屈や会話それ自体が、多分な共感を含んでいるからか。共感過多で息苦しくなるちょっと手前の匙加減。読むのが遅い私だけれど、ふだんの倍速で読めた。朝ごはんが野菜スープなのは、とてもいい。
「好きな場所」というのは難しい小説だけど、メモ的に抜き書き。

「おまえなんかでも、寝顔見ながらそいつの小さいときの顔がなんとなく浮かんできて、『おれが知る前のこいつの小さいときからのことを知りたい』って思ったりするのか」
(P112)

それにしても一言で「大きな」という言葉で片づけては申し訳ないくらいの大きなエネルギーによって生まれた宇宙の中で、恋愛したり失恋したりそうでなくても広く愛に取り憑かれて、そのことで身も心も大きな時間問えねえ留ぎーを使ってそれで死んでいくという人間がいて、砂漠には一日中費やしてわずか一日分の水滴を背中に溜めるという、ほとんどそれだけを毎日毎日繰り返して一生が終わっていく虫がいて、愛に取り憑かれた人間と水に取り憑かれた虫とたいして変わらないようにも思えるのだが、すべて生き物がそういうことばっかりして生きている宇宙というところはとてもおかしなところだという気持ちが僕にはますます強くなっている。
(P119-120)

「何?おれの電話、迷惑だった?」
 と、察知するところが酔っぱらい独特の敏感さで、蛯乃木にかぎらず素面の方がいい加減な相槌に対して鈍感に反応する。酔っている状態がもし人間の孤独というものに関して敏感だとするなら酔うのも無駄ではないと思ったから、実際それを言ったら蛯乃木は、
「やっぱり、おまえは本質的に冷淡なやつだ」
 と言ったが、この言い方もやっぱり酔っていた。
(P206)

生物学的な環境への適応力とか遺伝とか本能とか、他の動物ではダイレクトに機能しているものがすべて、このはるさめのような言語の力の流れにいったん還元されているのが人間なんだ
(P267)

また、劇中でも書かれているが、このタイトルにもなっていることへの作者の考えが、あとがきに書かれていて、これもおもしろい。

文学とか小説とかいうと、「青春」とか「少年期・少女期」とか「学生時代」というような年齢の限定が日本ではついて回りがちだけれど、二十歳やそこらでは語るに足だけの記憶の量や厚みをまだじゅうぶんに持っていないというのが僕の考えで、それは僕が十代にほとんど小説を読まなかったからという理由もまったくないとは言えないけれど、それ以上に、二十代やそこらで持っているつもりになっている記憶―とりわけ季節にまつわる記憶―は、ほとんどどれも自前のものではなくて文学や小説によって作られたもので、だから当然その中で閉じていて外=現実にある対応する自然を持たず(閉じている方が読むときにかかる負荷が少なくてすむ)、たぶんそのために僕の小説はこの『季節の記憶』に限らず、なまじっか文学をたくさん読んでいる人達には受けが悪く、もっとずっとたくさん読んでいる人か普段は全然読まないかかつてはよく読んだけれど「文学とかって何か違う……」と感じて今ではほとんど読まなくなった人達に支持される傾向があるのだと思う。
(文庫版あとがき・P367-368)

ところで「て」「で」「けれど」区切りのだらだら続く書き連ねっぷりは、うわっつらだけでまねしたくなる文体。あぶない。町田康が好きだなーって思ったときもそうだった。あぶなくて5年以上読んでない。でも保坂は読みたい。こまるなー。

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)