intro『モスクワ』

12/2sun14:00-@コンカリーニョ。千秋楽。モスクワにはおあつらえむきの大雪積もりて。
introを最初に観たのは『わるい子』で、そのとき以来のコラージュ進行。切りっぱなしの味わいある切り口が、あざやかな関連づけを伴いながら重なり合って心地よい。寒さと、戦前の記憶と、労働と、三人姉妹と、事故。それらをくるむ「目的地」と「通過点」のおはなし。それにしても「1986の一致」よく見つけたなあ!イトウワカナ同い年なのに…。
コラージュで演劇作品をつくろうとすると、あまりに自由度が高すぎるぶんテンポのコントロールが難しそうな印象があるのだけれど、そこをいつも本当にストイックに、けれどタイトすぎずにギリギリでコントロールしていきますよねintroは。あの、すっごい遅いところつくるじゃないですか。誤解をおそれずいえば「退屈な時間帯」。それを、ずっぽしつっこんでくるじゃないですか。で、あそこまでやられると観客としてはむしろすがすがしいんだけど、つくり手からしたらけっこう勇気のいることなんじゃないかなーとか思うわけです。いい演出。
出演者6名という人数に対し、近作からすればやや広すぎる印象の舞台も、ときどき密度の薄さを感じた(ぐぐっと熱量がほしいようなシーンが散漫となってしまうような)ところもあったけど、概ね使いこなされていたようで気にならずに楽しめた。でっかくてポップでだけど大味なところなんかロシアっぽいんじゃないの。ロシアンアヴァンギャルドってるんじゃないの。舞台奥&帰りのテクスト添付なんか、いかにもコラージュ作品についてのサービス精神たっぷりで、にやにや。俳優は例によってみんなよかったけれど、あえて名前をあげるとすれば今回は、菜摘あかねのモノローグが空気を振るわす美しさ。そして佐藤剛のうすらさむい恐ろしさ(あるいは岸部一徳性)。
intro作品を観ているといつも、そして今回はことさらはっきりと考えたのは「人間って、人生の/人類の悲喜こもごもをこうしてエンタメ化して楽しむことができる図太い存在なんだな」あるいは「エンタメというものはみなだいたい、人生の/人類の悲喜こもごもをモチーフにつくられているのかもしれないな」ということ。
随所に北海道ならではを積み重ねながら、今回はさらにロシアの個別具体性までも巻き込みながら、普遍性へと突っ走っていく、札幌の現代演劇。いいぞintroもっとやれ。