大量消費と広告と生業とモヤモヤ

今でも、広告の打合せの場で、「バーンと日本が元気になるようなCM作ろうよ!」という人は、きっと、モノが売れて、雇用が生まれて、それが社会のためになるっていうことを指しているんですよね。もちろん、今でも売り上げがあって、雇用があって、それは実は社会にとってすごく大きな意味があって、見落としてはいけない大事なことでもあるんですが、でも、「大量消費=善」の時代からシフトしているときに、広告というものは、相変わらず、「ある商品を効果的に伝えることで売り上げを伸ばす」という方法論のその次を見つけられていない。
永井一史さんに聞く(後編)「デザインとは、もともと社会をよくするためのもの」 | AdverTimes(アドタイ)

こういう言説を業界誌やらウェブやら書籍やらでよく目にするようになって、まあそもそも広告ってだけじゃなくビジネス全般にいえることだと思うんですけど、わりと経ちますよね。そのすべてに目を通しているわけでも、しっかり考えられているわけでもないけれど、そんな時代に広告を生業として選択した者として、気にならないわけがない話題である。
いわゆるトップクリエーターと呼ばれる方々や、中央の広告代理店でとりわけ俯瞰することが役割のような方々は、上記のようなことをよく仰っていて、具体的な事例なんかもちらほら紹介されたりするわけだけれど、少なくとも私が日ごろ携わっている仕事は現状まったくこんなことにはなっていないわけで。そりゃあ過渡期なのかもしれないし、こういう仕事がゼロになるわけじゃないのかもしれないし、それはローカルだからってことなのかどうかはわからないし、上記のようなことを仰っている方々だってフツーの商品広告もたくさんつくってるのかもしれないし。けれど、いち職業人として、危機感はなくはない。


「大量消費=善」の時代からシフトしている現代。現在。そんな時代の「広告」が「効果的に売り上げを伸ばす」ことではないのだとしたら?「社会のために」っていうときの「社会」とは、もっと具体的に何を指しているんだろうか?モヤモヤ。
いま、私は、幸運なことに日々充実を感じながら、広告の仕事をやって食べている。そしてこれから、日々充実を感じながら死ぬまで食っていくために、何をしていくべきなのかと考える。「広告」なのか「ことば」なのか「書くこと」なのか「コミュニケーション」なのか。コミュニケーションってなんだざっくりしすぎてないか。モヤモヤ。


いま知りたいなと思っているのは「大量消費=善」以前の時代の広告と、広告業について。ここまで大量生産大量消費な近現代の広告じゃなくて、それ以前の、もっと昔の広告はどんなものだったんだろうな。歴史から学べることがあるような気がするんだけど、どうだろう。あてずっぽですが。広告の起源って、紀元前の大昔に逃げた奴隷を捜索するための広告…とかじゃなかったでしたっけ?
専門職としての「広告屋」なんか、そもそも成立していたのかな。