鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』

ちくま文庫。とってもすらすら読めてうれしかったんだけど、もともと10代の読者に向けて書かれた本だということを知って、そりゃ読みやすいわと。そして「10代の俺は、この本、きちんと読めたかな…」と若干ブルー。
ファッションとは何ぞや?モードとは何ぞや?という、自分の中では曖昧だった(正直いままであんまり興味なかった)点について、ひとつの物差しを提示であると同時に、身近な衣服の話を補助線にした近現代のちょっとしたガイダンス、みたいな。そんなプチガイダンスに「へー!」ってなってる自分が自分で情けないけんど。

もともと等身大のファッションなんてありえないのであって、つねに背伸びするか、萎縮するか、つまりサイズがずれてしまうのが人間だ。パスカルは「不均衡」(ディスプロポーション)が人間だと言ったが、ファッションは人間の存在のそのディスプロポーションをいちばん微細に表現するいとなみなのだ。
(P166)

未来を視野に入れて現在の行動を決定する態度というのは、近代的な社会のありかたと深く結びついている。「市民の制服」について考えたときにも少しふれたように、そもそも近代社会は、一人ひとりの個人が「だれ」であるかということを、過去の方向に、つまりその「起源」(つまり家族的・民族的出自)に求めるのではなくて、むしろかれがこれから何をなすかという「約束」のかたちで、未来の方向にそれを求めた。
(P90)


また、単純に、洋服の歴史として面白いなーというものも。

こういう華美な服装に対して、新興ブルジョワジーは、「品位」という控えめの価値を対置し、「慎み、努力、正確、真面目、節度、自制」などを可視化するような衣装を身にまとうようになる。「貴族階級の無為と奢侈の目印であった布地・服飾品のきらびやかな多色」に対抗する単色・無彩色の服である。これは、西洋の服飾史の中ではじめて組織的に追求されたドレスダウン(着飾らない服)の思想だったといってもいいだろう。
(P72)


おお、そういえば、という指摘も。

仮面、あるいは暗黒舞踏でするような白塗りの厚化粧は、顔のメッセージを消去することで、逆にボディの運動にメッセージ機能を回復してやるわけだ。
(P22)

男性の身体はなんとも抽象的である。《中略》一度獲得された身体イメージは固着し、融通性を欠いた観念的なものとなる。《中略》たわむれに異性の服装をして、人格が壊れてしまいそうなほど深刻な動揺に引き込まれてしまうのも男性だ。
(P106)


さて。私自身、おしゃれな人間とはいえない。ぜんぜん詳しくもない。けれど、以前よりも衣服のことは好きになってきたここ最近である。理由としては学生の頃よりもいくばくかお金はもっていることと、「試着して買わない」をできるふてぶてしさも手に入れて、それなりに気後れをしなくなったというのが大きい。少し痩せたし。
そんな私にとって本書で語られるような衣服の機能や役割や意味・価値というのは、示唆に富む部分も多くあるけれど、率直にいえば「そんなにとんがってなくていいんじゃないの」と感じてしまうものだ。なにも衣服に、社会への批評的なまなざしが含まれていなくてもいいんじゃないの。なにも衣服に、そんなチャレンジングなものを求めなくてもいいんじゃないの。と。
もちろん「なにも○○じゃなくていい」といえてしまうものは山ほどあるし、そんなの人それぞれじゃんってかたづけられることかもしれない。しかしながら素朴にであるが「なにも衣服に」と思ってしまうというのは、それは私が衣服についてそれほど考えてこなかったということだけなのか、それとも鷲田先生がおっしゃるところの「最後のモード」のその先にいるってことなんだろうか。
やはりなんだか自分の中で、どうにも「衣服」を「何かを表現するメディア」ととらえることに違和感があるような気がしている。そのへんのところがきちんと整理がつかないままだから、きっとモヤモヤしているのだろう。「そこまで考えなければイケてる衣服ってできないものなのか?」という疑問。

「機能が形態を規定する」ということがデザインのポリシーとしてよく言われるが、着やすさという点で、たしかに衣服は機能的なものでなければならない。けれども、機能的というとき、それが何にとって機能的かは一概に決められない。日本の着物は、単純に身体にとって機能的であることをめざしてはいない。それはむしろ、(身体をではなく)ふるまいを演出するもの、運動としての身体に固有のヴォリュームを与える服としてある。
(P161)

後付けで、社会的に果たしている役割として記述されるのなら納得がいくが、こと「これからつくろう」「これから着よう」とするものに対して、そのように考えることが有効なんだろうか?

すぐれたデザインは、時代の気分やマジョリティの生き方への、いくぶん斜にかまえた批評的意識、つまりは同時代に対するジャーナリスト的な感覚を、服の中に縫い込んでいる。ちなみに、日本のある先鋭的なデザイナーに素材を提供している生地製作者は、新しい生地を考えだすとき、いつもまず新聞をくわしく読むと言っていた。新しいテクスタイルは、時代の手ざわり(テクスチュア)を微細に感じとるところから生まれるというわけだろう。
(P61)

そっかー。そうなのかー。そうなのかなー。
つくり手や着る人たちはその時々の「イケてる」を求めてて、ただ「イケてる」基準それ自体が変化しているんだともいえるんじゃないかと思うんだけどなー。
それともやっぱり「つくる」と「着る」をごっちゃにしてはいけないのかなー。
『プラダを着た悪魔』もっかい見返せばいいのかなー。


モヤモヤしたままで明日の衣服も決めねばならぬのう。

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)