串田孫一『文房具56話』

ちくま文庫。この本のことは私が文房具好きになったきっかけのひとつ・雑誌『広告』の文房具特集で引用されていて、当時はその雑誌その特集にそもそも驚きというか、文房具を意識させられて間もない頃だったので、この本についても「こんな本が成立しているのか!文房具って!」と思うに留まっており、読まないままに放置してしまっていた。最近、文具王のトークを聞きに行ったりしたのもあって、文房具に関する造詣を意識的に深めてみたいと考えるようになり、この本のことを思い出した次第である。
串田孫一。元大学教授で随筆家・詩人・哲学者で、絵を描いたり篆刻もしたりと、それはもういろいろやってたらしい。それなんて無敵キャラかと。なんだか果てしなく遠い存在に感じてしまいそうになるが、串田和美のお父さんと知って驚きと親しみをおぼえた。どんな著名人であろうと、いちどでも舞台で拝見したことのある俳優さん(の縁故の方)には妙に勝手な親近感を抱いてしまう。なんだか不思議なものである。


さて。この著者の境遇、もっといえば「育ち」は私にとって非常に特異に感じられる。1915(大正4)年、東京生まれで、父親三菱銀行の会長。小中学生の頃から学校では、やれフランス語だ漢詩だを習い親しみ「容器画」とかいう製図のような科目もある。学校の制度だとかその背景を私は詳しく知らないが、もうぶっちゃけインテリである。それもただ浮世離れした思索に耽るだけの、ではなく、実践的な発想と手技を兼ね備えたインテリ。それなんて無敵キャラかと。
さらに面白いのは、著者が戦前戦中戦後を生きていることである。この本の原稿が書かれたのは1970年以降のため、幼少期の話などはだいぶ遠い記憶を回想する体になるのだけれど、それでも今でこそ当たり前のようにある文房具(ボールペンとか鉛筆削り機とか)の黎明期であったり、そもそもまだ日本には入ってきていなかった頃などの話など、とても興味深い。そして戦中、文房具がどんどん粗悪になっていく有様、代用の知恵。戦後に再び物資が潤沢になり、かつ新しい技術を使った文房具が登場、それらを楽しく便利に採り入れつつも、古きよきものを残しつつも、折り合っていく有様。
なにより、前述の職業柄もあり著者はいろんな文房具を必要から使うし、そもそもこんな本を出しちゃう(その元になる連載依頼を受けちゃう)くらい、文房具大好きマンである。そんな文房具大好きマンが持ち前のインテリジェンスで豊かな来歴を振り返りつつ時折しっかり文献にあたったり工場に出かけちゃったりもするんだから、この著者でなければやはり書けなかったであろうと思わされる内容である。そしてそれを、思い入れたっぷりに声高らかに披瀝するのではなく、さらりと抑制をきかせた文体と文字数で読みやすく書いてくれる。さすが日本が誇る文房具大好きマンである。


56話。すなわち56品目。目次だけで酒が飲める酒が飲めるぞー、なのである。自分にとってなじみ深い文房具(帳面、消ゴム、定規、鉛筆、筆入など)から、知ってはいるが普段は使わないもの(ペン先、吸取紙、カーボン紙など)、なじみの薄いもの(謄写版など)まで酒が飲める飲めるぞー酒が飲めるぞー。
とりわけぐっときた箇所のみ引用。

私は便箋について特別の好みはないが、長文の手紙を書くようなことも滅多になくなったので、無罫のものを選ぶ場合が多い。そしてこの下敷を使うわけであるが、その時々によって、字の大きさや行間のあき具合を変えたいので、五、六種類、自分で罫を引いたものを持っている。簡単な礼状のような時に、既成の下敷だと、書くべきことが途中で終わり、そのままあけておくのもおかしいので、ついつい無駄なことを書いて、少々滑稽な手紙になってしまう。そういう時には幅の広い罫の下敷を使う。
(「下敷」P92)

ちょっとした工夫や、なにかと自作しちゃうことを厭わない器用な文房具大好きマン。

 まだ自分では原稿書きを仕事にしようなどと考えていなかった頃、ある美術雑誌の編集部に勤めていた知人が、当時既に名前の知られた評論家から受け取って来たばかりの原稿を私に見せてくれたことがある。それは二百字詰の原稿用紙で、三十枚ばかりのものであったが、私の眼に最初に入ったのは、その題名や文章の文字ではなく、右上の端の鳩目であった。
《中略》私はいそいそとそれを買いに行った。そして買っては来たが、何に使ったらいいか迷った。紙袋に鳩目をつけて壁に吊し、状差しのようなものを造ったり、電灯のかさを造ったり、部屋の中は次第に鳩目工作の展示場のようになって行った。
 しかし何と言っても、三十枚ぐらいの、これで綴じるに相応しい文章を書いてみたいと思うようになり、この道具のために妙な夢が湧いてしまった。鳩目のために原稿書きを仕事とするようになったと言うのは冗談も交じるけれども、全くの嘘でもない。仕事や発見の動機などというものは、それとはあまり関係のないような、極めて些細なことである場合が意外に多いものである。ただそんなことを言ってみたところで、世間には通用し難いだけである。
(「鳩目パンチ」P117-119)

ちょうど商売道具に関するこのエントリを書いた直後に読んだので嬉しかった。文房具に勤労意欲を刺激される文房具大好きマン。

 その研究室の私の机の上には、錆びたホッチキスが置いてあった。かなり頑丈な大きいもので、研究室の備品であった。百枚は無理かも知れないが、かなりの枚数が綴じられるので、ありあまる時間をもてあまして、これでいたずらをよくした。公私のけじめを私は気にする方であったが、公のいたずらならばこれを使っても差支えないと考えた。ストレス解消のために、ただ紙を四折、八折に畳んで、ガツンガツンと押してみたり、まあ、大したことをしたわけではない。
(「ホッチキス」P136-137)

いたずらの言い訳をこねくった挙句、照れて唐突に話を放り出すお茶目な文房具大好きマン。

書の専門家の書いた書物や、中国の文房具の研究所などをみると、こんなに深入りしてしまってと思うこともあるが、道具の素晴らしいものがこうしてあれば、なんでも使えればそれでいいという気持ちでいられなくなるのも当然のように思われる。それは単なる贅沢ではなしに、芸術に対する烈しい執着であろう。
(「硯」P146)

無闇に深過ぎる世界への深入りに一定の理解を示す文房具大好きマン。

 どこの町会でも、また辺鄙な村でも同じようなことをしていたのだと思うが、結局は単純な印刷であったために誰にでも一応出来て、しかも電灯が消えても蝋燭の灯で書くことも刷ることも出来た。これが、例えば電動式の複写機などであったら、停電とともに動かなくなって困ったろうと思う。平和な時にあまり発達し過ぎた機械類は、何か一つ欠けると機能は全くとまる。
(「謄写版」P190)

うっかり現代に通じる教訓を示してくれる文房具大好きマン。


文房具56話 (ちくま文庫)

文房具56話 (ちくま文庫)