思いやる文房具

弘法は筆を選ばない。どんな道具でもいい仕事できるのがかっこいい。道具へのこだわりは意味がない。エトセトラ、エトセトラ。文房具を好み、雑誌やウェブの関連する記事を積極的に摂取していると、時折このような考え方の開陳に出会う。
わかる。大いに一理ある。このような主張をさらりと言ってのけさらには実行することへの憧れもあるし、ある特定の道具に依存することが自らを弱くすることにもつながりかねないという危機感もある(過去記事1/過去記事2)。
その一方で、道具/文房具へのこだわりを肯定する主張もたくさん、たくさん目にする。曰く「仕事の効率アップ」「最高の仕事をするには最高の道具が必要不可欠」「お気に入りの道具を使うことによって気分が上がっていい仕事ができる」「文房具が会話のきっかけになる」「モテる」エトセトラ、エトセトラ。
このへんは正直なところ私自身の考えも揺れており、どちらかに全面的に与すると決めることが難しい。時として仕事の効率化や品質向上とは乖離すら引き起こす文房具へのこだわりを【趣味的なもの】として一線を画してしまうという整理の仕方もあるだろうし、私もいつもはそうしている(パソコンやスマートフォンのカスタマイズそれ自体が好きで仕方ない人々のように)。また、「バランスが大事よね」という結論でオチがついてしまうといえば、その通りだ。


とはいえ「このことは確実にいえるだろう」という軸としてこのたび【コミュニケーションツールとしての文房具というありかた】を設定してみたい。
これは前述のような「文房具が会話のきっかけになる」といった類の話ではない。書かれた文字や切られた紙といった文房具の成果物を相手が手にしたり見たりするということ。すなわち使う本人ではなく、相手にとっての文房具という考え方である。要は「相手への思いやり精神」で文房具にこだわることは至極有益なことではないか、ということだ。【情報伝達手段としての文房具】と言い換えてもよいかもしれない。
そりゃ、どんなペンでもキレイで間違いない字をスラスラ書けたり、どんなハサミでもまっすぐ紙を切れる技量を持てたら素敵だ。私もできればそうありたい。けれど、そこはやはり得手不得手というものがあるわけで、自分の不得手をしっかり自覚したうえでそこを補ってくれる文房具を選ぶというのは、自分のためというよりは相手のためになることなのではないか、あえて大げさにいえば「世のため人のためになること」なのではないかと思うのだ。


このような、文房具に含まれている性質としてはあまりにプリミティブなことを意識し始めたのは、このところ仕事柄、校正をすること、いわゆる「赤を入れる」機会が増えてきたからである。時にWordやExcelファイルのプリントアウト、時にデザイナーさんがつくったものなどに対する校正作業。シンプルな誤字脱字の指摘から文章の修正、果ては原稿構造の変更まで、赤字に含まれる情報は幅広い。そして、そこでは「正確な伝達」が死活問題だ。相手が修正ポイントを見落としたり、修正内容を誤解したりすることのないように「キレイで読みやすく間違いの起こらない校正紙をつくること」が校正者たる私の大切な務めとなる。これは「校正それ自体の正確さ・的確さ」と同じく大切なことだと思う。

写真は現在の私の校正用ペンケース。中身はフリクションのボールペン(0.5mm)の赤とブルーブラック、フリクション蛍光ペンの緑、ふせん。
「赤入れ」というくらいだから、鉛筆やスミ色で校正を行うことはまずない。見づらいからである。しかしながら場合によっては逆に赤色の修正指示が見づらい場合もあるので、そんなときはブルーブラックを使う。原稿要素がとっ散らかっている場合はチェック漏れが怖いのでOKの箇所を全て蛍光ペンでつぶしていく(参考:文具王の記事)。ふせんは校正する紙が複数枚にわたる場合の栞がわりや、直接書き込めない紙に修正指示を入れるときに使っている。
ペンを全てフリクションにしているのは「消せるから」。というのも、校正中に「修正指示を書き間違うこと」はありえることで、それは非常によろしくないと思うからだ。「修正の修正、の修正」が入ってるような校正紙はミスの元である。校正紙には正しい修正指示だけが見やすく入っていなければならない。字が上手ではない私にとってはなおさら「キレイに消せる赤」は重宝するのである。


以上のような「校正」といったシチュエーションは「相手ありき」の極端な例だし、フリクションのように「今までになかった特殊な機能」があるからこそ文房具選びの貢献が際立つのかもしれない。また「自分が気持ちよく使えること」と「キレイな成果物」はきわめて密接で、結果的に大した違いはないのかもしれない。
しかしながら、なにかにつけて「自己満足」と決めつけられがちな道具/文房具へのこだわりについて「相手の感じ方」に意識の重心をシフトしてみることは、誰もがハッピーになれる視点なのではないかと考えてみた次第である。


思いやる相手は「未来の自分」の場合もある。