高村光太郎『智恵子抄』
新潮文庫。高村光太郎の詩は「牛」しか知らず、智恵子のことも「ちえこしょー」としか知らず、中学の修学旅行で行った十和田湖で像を見たなあってことぐらいで、本当に実物を見たかも記憶が怪しいほどで、二人がどんな人生を送ったかを全然知らずに読んだ(恥ずかしい話だけれど、これはこれで貴重な体験だと前向きにとらえます)。
はじめは「なんつーむちゃくちゃで身勝手な男だこいつぁ」と若干イラつきながら、モヤつきながら。自分の心情をどう吐露しようと勝手だけれど「相手はこうだ。」と言い切るのって(それが自己に紐づく表現だとはわかっていても)お前何様だよとつっこみたくなる。とはいえやはり途中からは「うーん。わーん。がんばれたかむらー。たかむらー。ふなきー。」となってしまった。時系列に収められた作品たちは、はじめは激しくあっついのが、どんどんやさしくなってゆく。あと、対句っぽいのが多い人ですね。
好きな箇所をいくつか引用。
あたなは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない
(「おそれ」)
君こそは実にこよなき審判官なれ
汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
をさな児のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
君の見いでつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官とすれば
君によりてよろこび
わがしらぬわれの
わがあたたかき肉のうちに籠れるを信ずるなり
(「郊外の人に」)
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
(「人間の泉」)
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
(「あなたはだんだんきれいになる」)
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。
(「美の監禁に手渡す者」)
あの欲情のあるかぎり、
ほんとの為事は苦しいな。
美術といふ為事の奥は
さういふ非情を要求するのだ。
まるでなければ話にならぬし、
よくよく知つて今は無いといふのがいい。
(「吹雪の夜の独白」)
そのままの印象で知識を入れずにブログを書こうと思ってたら、たかむら最後に自分で智恵子のことぜんぶ説明しちゃってて、きっとあくまで男視点なんだろうけれど、まあ、ウィキペディアを見る手間が省けたのでこれはこれでよしとしよう。ここの文章は、想いが込められつつも抑制が利いていて、とてもよい。
自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。
(「智恵子の半生」)
- 作者: 高村光太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/11
- メディア: 文庫
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