ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

高橋義孝訳、新潮文庫。浅学にして話の筋をぜんぜん知らず、ウェルテルが何に悩んでいるのかをも今まで知らずに読み始め「あー、ロッテの元ネタここだっけ」と思い出しながら読み進め。ウェルテル悩んでた。めっちゃ悩んでた。身悶えまくってた。身悶えじゃくってた。看板に偽りなしの悩みぶり。書簡体小説であることによって加えられる、ウェルテルの若干の冷静さ、冷静になろうと努める揺れっぷり、など、ただただ退屈な独り語りに突き進まず、読みやすさを増しつつ深みを増しつつ、とてもいい。職場帰りの地下鉄、そして深夜の自宅で焼酎かっくらいながら読んでるこちらとしては「もっとやれ」と「もう勘弁してくれ」の往復運動である。熱いぜウェルテル。なんなのロッテ。揺れる想い体じゅう感じるっちゅうねん。

こんなにいろいろと親しさを見せつけられて、しかも手を出してはならないのだ。
(P124)

今まで、勝手に、読みもせずに、ただゲーテだというだけで、有名なゲーテというだけで読みつがれているだけの本なのだと思っていた。とんでもない。すんげーおもしろい。背景はともかく、おおむねだんぜんコンテンポラリー。訳文の読みやすさもあると思うのだけれど、こんな小説が18世紀後半に書かれて、もう200年以上読みつがれてるのである。200年以上も後のヤーパンで「あるある!」とか思われながら読まれることを、ゲーテは想像していただろうか?そんな瑣末な想像は必要なかっただろうか?

土地の人たちの様子はどうだときかれれば、いずこも同じだと答えなければなるまいね。人間なんてのは何の変哲もないものさ。大概の人は生きんがために一生の大部分を使ってしまう。それでもいくらか手によどんだ自由な時間が少しばかりあると、さあ心配でたまらなくなって、なんとかしてこいつを埋めようとして大騒ぎだ。まったく奇妙なものさ、人間というやつは。
(P12)

この小説それ自体からはもちろん、この小説が200年以上も読みつがれているという事実に私はとても勇気づけられる。それはただ教養至上主義的に摂取されているのだけではないと私は思う、今さらながら。シンプルにオモロー。ゲーテオモロー。
物語の結末、ウェルテルの決断は、じっさい私にとっては、あまり特段の意味をもたなかった(これが元ネタとなって、既に使い尽くされた筋だからかもしれない)。その内容と裏腹に、読みながらじわじわと、読み終えてなおいっそう「ライフ・ゴーズ・オン」というフレーズがよぎる。悩みながら、揺れながら、悶えながら、転がりながら、まあ生きていくんだよね。と思う。

それに公爵はぼくの心よりも、ぼくの理知や才能のほうを高く評価しているんだが、このぼくの心こそはぼくの唯一の誇りなのであって、これこそいっさいの根源、すべての力、すべての幸福、それからすべての悲惨の根源なんだ。ぼくの知っていることなんか、誰にだって知ることのできるものなんだ。―ぼくの心、こいつはぼくだけが持っているものなのだ。
(P107)


古典いっぱい読もうほんとにあらためて。

ぼくらの立派な先祖たちは、あんなに狭い知識しか持たなくとも、あんなに幸福だったのだ。その感情、その文学はあんなに子供らしかったのだ。オデュッセウスが、はかるべからざる海原、限りなき大地というとき、それは実に真実で人間的で切々と引き締っていて神秘的だ。
(P106)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)