コンドルズ日本縦断大蒼天ツアー2010『SKY with DIAMOND』北海道十勝公演 ラフカット・スペシャル

9/26sun1500- @幕別町百年記念ホール。
たまたまコンドルズのサイト見て全国ツアーで北海道に来ることを知り、「でも札幌来ないのかー」と残念に思い、でも平原慎太郎が出演するよってのを知り、「これは観なければならない」と十勝遠征を決断。
コンドルズを初めて観たのは、まだ札幌えんかん会員だった学生の頃、たしか2001年。その後はテレビでたまーに目にするものの、本公演を観たことなし。いっぽう平原慎太郎を観たのは…こちらも6、7年前以来だろうか。琴似コンカリーニョ(リニューアル前)だったか、小樽でのスタジオ公演だったか…そのどっちかが最後。

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さて、9年ぶり・2回目のコンドルズ。
面白かった。かっこよかった。…と思うと同時に、以前にも抱いた不思議な気持ちを思い出した。物足りないというのではない。楽しくないのでもない。でもなんか、でもなんか、パシーンと納得いかないような、満たされきらないような、わけのわからん成分が自分の中に残るのである。
これは何なのか、ちょっと考えてみた。
観劇後「面白かった」と振り返るとき、真っ先に思い出されるのはコントパートである。そりゃ面白い。たくさん笑える。記憶としても定着しやすく反芻しやすい。でも、コントだけをピックアップして「コンドルズが面白かった」というのは、やっぱり違う。このコントだけを観にわざわざ劇場へ行くかと冷静に考えてみれば、たぶん行かない。
当たり前なんだけれどダンスのステージなのである。そしてそれらの所作、動きは、実のところコントよりも記憶として定着しにくい(俺の場合、なのか?)。かっこよかったり、興味深かったり、よくわかんなかったり、わかったりする、ステージの大部分を占めるダンスと、コントと、それらが入り混じったようなパートとがぐっちゃぐちゃになって入ってくるのだ。
味が目立つ、濃い部分(コントだったり、かっこいいダンスだったり)が観劇後の印象としては色濃く残っているのだが、それ以外の隠し味的な部分がやたらめったら多いために「わかりやすく反芻することができない」。その状態に俺は戸惑っているのではないだろうか。

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「補助線」ということを考えた。
ある表現を理解したり、楽しんだりするための補助線。
万人受けする、誰が見てもわかったり、楽しめたりする表現は、補助線を必要としない。
受け手を選び、難解な(しかし一部には熱狂をもって受け容れられるような)表現は、補助線を必要とする。
金を払って観に行っている以上、「補助線を引かなければ楽しめない表現」ではイヤだ。でも「補助線ナシでもOK、かつ補助線を何通りも引いて楽しめる表現」は、深い。
で、今回見たコンドルズは、補助線ナシでも充分楽しい。かっこいい。かつ、俺がモヤモヤしてる部分には、きっといっぱい補助線が引けるんだろうと思う。そのとっかかりを、パフォーマンスの端々でやさしくナビしてくれているような、そんな気がする。
そんな意味での「間口の広さ」と「深さ」が、「興行」と「芸術表現」の間をスルスルと渡り歩くコンドルズ(のようなパフォーマンス)にはあるような気がするし、そのほか世の中にある表現の営みについて考えるときのとっかかりになる気がするんだが…このへんは整理がつかないのでゆっくり考えてみる。

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コンドルズも、平原慎太郎も、あと、もっと色んなダンスやら身体表現やらにも触れてみたいなあと思った。うん、行ってよかった。さて、観劇費用をどう捻出しようか…。


終演後、コンドルズ名物・熱気まみれの物販ロビー(売切がイヤで開演前に購入済み)。

そして劇場の外は、美しく陽の落ちた、だだっ広い蒼天。