梶井基次郎『檸檬・冬の日 他九篇』

岩波文庫。何年も前に琴似(当時)の「くすみ書房」で購入し、「檸檬」だけ読んで、次の短篇からのあまりの退屈さに打っ棄っていた一冊を再読。
檸檬」はやっぱり面白い。惹かれるものたちを仔細に美しく描写する筆致、その展開の突拍子の無さ。教科書にも載っていて、有名で、よく知っている話だからスッと入ってくるというのもきっとあるけれど、やはりしびれるようなかっこよさがある。意外と短いのもいい。
それに比べて他の短篇のつまらないこと。いや、つまらないかどうかは人それぞれだろうけど、肺を病んだ人間の何をするでもない日々の描写の積み重ねは、俺には退屈。何度も打っ棄ってしまおうかと思ったが、ぐっとこらえてさらさら読み通してみた、けど、やっぱりあんまり印象は変わらなかった。でも、フィットする人・フィットするタイミングはきっとあって、例えば「のんきな患者」の主人公の弱気っぷりや逡巡などは、数ヶ月前に高熱で一週間寝込んでいたときの自分を思い出して大いに身につまされた。健康って超尊いよねー。
他にわりと面白かったのは「冬の蠅」と「瀬山の話」。肺を病んでいるのは同じなんだけど、ぎらついてるというか、切羽詰っているというか、ぐいぐいっと引き込む力を持っていると感じた。
なんだろう、下手ってわけじゃないんだろうけど、こなれていないゴツゴツっとした感じの言い回しや展開に、どうにも読んでいてつっかかってしまうのである。そのぶん物語の筋や設定が興味を喚起してくれないと、俺としてはちょっとつらいものがある。松岡正剛千夜千冊の第四百八十五夜で「梶井基次郎は文章も理科系なのだ。」ということを仰っていて、なるほどなあと思った。部分的にはハッとさせられる言葉遣い、描写が時々。

突然匕首のような悲しみが彼に触れた。
(「冬の日」)

なんという雑多な溷濁だろう。そしてすべてそうしたことが日の当った風景をつくりあげているのである。そこには感情の弛緩があり、神経の鈍麻があり、理性の欺瞞がある。これがその象徴する幸福の内容である。恐らく世間における幸福がそれらを条件としているように。
(「冬の蠅」)

私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼らの死を傷んだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がしたからであった。
(「冬の蠅」)

しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかという段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだった。煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春のような気持ちは一時に吹き消されてしまわなければならないということは吉田も知っていた。そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな恐ろしい咳の苦しみが襲って来るかということも吉田は大概察していた。そして何よりもまず、少し自分がその人の故で苦しい目をしたというような場合直ぐに癇癪を立てておこりつける母親の寐ている隙に、それもその人の忘れて行った煙草を――と思うとやはり吉田は一も二もなくその欲望を否定せざるを得なかった。だから吉田は決してその欲望をあらわには意識しようとは思わない。そしていつまでもその方を眺めては寐られない春の夜のような心のときめきを感じているのだった。
(「のんきな患者」)

どんなに永く生きのびても畢竟彼の生活は、放縦の次が焼糞、放縦―破綻―後悔―の循環小数に過ぎないのではないか。
(「瀬山の話」)

何とまあ情けないことだ、この俺が、あのじたばた毎日やけに藻掻いていた苦しみの、何もかもの総決算の算盤玉から弾き出されて来た俺なのか。
(「瀬山の話」)

執筆順としては先だけど本書的に後に回った「瀬山の話」の中の「檸檬」が、なんだか「檸檬(reprise)」な感じで俺的にサージェント・ペパーズ・ワン・アンド・オンリー・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド!

檸檬・冬の日―他九篇 (岩波文庫 (31-087-1))

檸檬・冬の日―他九篇 (岩波文庫 (31-087-1))