遠慮対策

4/28北海道新聞テレビ欄。ひとくち餃子・点天の広告。

何もいらない
というあの人を、
喜ばせてみたい。

私個人のことを言えば「何もいらないというあの人」は実家の両親、特に母である。そして母が「何もいらない」と言う場面において、私は困ってしまうことが常である。言葉通りに何も持っていかなくても表向きは問題ない。ないけれどでも。かといって大げさに何かを持っていくと、かえって恐縮されてしまってそれもよろしくない…。そんな私にとって、上述のコピーはスッと腑に落ちる。「ああ、その手があったね」と素直に思える。また、「喜ばせたい」ではなく「喜ばせてみたい」という表現は、サプライズなプレゼントの情景に潜む「楽しい企み」を想起させる。
作り手の立場として参考にしたいポイントは3つ。(1)餃子を「美味しいから買って〜」とかではなく、「贈り物用に」という転換(人と人との関係性の中の商品。まあ点天は元々お土産としての性格が強くはあるが…)。(2)商品がソリューションたりえる、日常に存在する困りごとの発見。(3)心情の生き生きとした描写。

といったところか。しかしながら…

母の日に。お土産に。

これはない。たしかに「何もいらない」と言いがちなのは「母」だと私は思う。でも「母の日に餃子」は、果たして本当にありえるだろうか。従来どおりの「お土産」訴求だけで終わっておけばよかったのに、欲張りすぎの印象。冷静に見返せば、避けられたことだと思う。逆に「母の日に餃子、が新しい提案なのだ!」という意図があったのだとすれば、それを支えるものが足りない。