まんちゃん、ふまんちゃん

基本的に日々、周囲のあれこれに対して不満を抱くことがあまりない。誰かが誰かに悪態ついているさまは自分に関係なくても気分が悪いのでなるべく避けるようにしている。人の悪口を言う人は苦手だ。テレビをつけても腹の立つような話題だったらすぐにチャンネルを変える。だからTVタックルは見ない。空中キャンプを書いてる人も書いてたけれど、しんどいのです、正直、怒るとか。「こうじゃなきゃいかんだろう!」とか、思えないんだよなあ。以前のこれにも関連するのだけれど。
そんな風に暮らしているものだから、あまり「ここ、こう変えていこうよ!」とか「こうしたらもっと面白いよ!」と自分から言うことがあまりない。というか、思わない。もういろんなことが、じゅうぶんだし面白いよ。と、けっこう本気で思っている。
それなりに満足な生活を送っているにもかかわらず世の中のいろんなことに怒りをおぼえることのできる人はすごいなあ、と思う。さぞ苦しいだろうに。そんなこと思わなければ楽で幸せだろうに。善悪なんて、ポジショントークでしかないんだから。とか言ってみながら。もちろん、今のわたしは情報収集と思考を中断している。TVタックルは見ない。でもそれで日々しあわせだ。
けれど、なにかをつくろうとするとき、なにかを改善しようとするとき、ひとつ突き抜けようとするとき、付加価値を生み出そうとするとき、そういったことでお金を稼ごうとするとき、不満や怒りがキッカケや突破口や大きなエネルギー源になることもあると思う。必要は発明の、ではないけれど、そっからのバネで新しくてステキなものがつくられ、生み出されることは、きっとある。
ただ、そのために、日々のいろんなことについて、突っかかっていくのってどうなんだろう?十分満足しているようなものをあえて執拗に穿り回して、あげつらい、怒るなんて。できることならやりたくない。でもそのことが、何かをつくったり生み出したり変えたりするためには必要不可欠なのだとしたら、どうやって暮らしとのバランスをとればよいのだろう?何かをつくったり生み出したり変えたりすることが、わたしの生活には必要不可欠なのに(金銭的にという意味でも)。
「満足チャンネル」と「不満チャンネル」を、うまく切り替えることができたらいいのかな、と、ふと思いついたのだけれど、そう器用にはできそうにないわなあ。
まあ、最近はそうでもないことも増えてきて、それはそれでいいんだか悪いんだかだけど。