一生モノ考

ここ数年、文房具が好きだと公言している。そのわりに全然詳しくもなければ多数所有しているわけでもないけれど、好きなモノは好き。ラミー何本か買ってみたりモールスキン買ってみたりロディア買ってみたり。ベタだけど。
このモノに対する憧れのような感情は、開高健のエッセイ『生物としての静物』に端を発している気がする。ジッポやら万年筆やら、まあ男子が好きそうな、ラピタとかに載ってそうなあれこれ。ほぇぇ、ほぇぇぇ、と憧れを膨らませる10代の俺。
良いモノを、一生モノとして、あたかも体の一部になる、体の延長であるかのように使うこと。ペンであれなんであれ、どうせ使うのであれば道具に関してはかくありたいものだ。


しかし一方で「それではいかんのではないか」という思いもある。だってモノだもの、壊したりなくしたり使えなくなったりする事態になったら。それが丹念に丹念に使ってきたモノであったら。とても困る。「〇〇が使えなくなったから、できません」なんてこと、場合によっては通用しないし、そんなのはなんかいやだ。それは依存だ。どっぷり依存。なくなった途端に自身は無力。そんなのはいやだ。
以前、野村訓市が雑誌上のインタビューで「文房具は何でもいい」と言っていた。「ギターうまい人はどんなギター弾いてもうまい。そういうのがいい」みたいな話。まったくその通り。どんなに大切に使ってもモノには寿命があるし(ヒトにもあるが)、廃番もある。デジモノに至っては秒進分歩で使えなくなる。


開高の上記エッセイにも、究極の道具として「指」という話もあった(たしか、釣り人の)。これは究極だが、究極ゆえになかなかそこには達せられぬだろう。しからばいつでもどこでも手に入る、または何かで代用が利くモノを一生モノとしていけるように、自分の身体を合わせてしまうというのはどうか。家の近所だろうが旅先だろうが簡単に入手できるモノ。できるだけ定番で、高価でなければなお良い。なんだかんだいったって、道具との親和性なんて慣れの問題が大きいと思うし。
別の雑誌のインタビューで、ホテルにある安っぽいボールペンでなければ書けないと語る海外の作家がいた。依存気味ではあるものの、どこでも入手できてすこぶる安価である。


現状、私の中での一生モノはロディアの11番。コンビニとまではいかないが、わりかしどこでも売ってるし、安くはないが買えないほどではない。消耗品だけど、その「なくなることが前提」てのもまた気負う必要がないぶん良い。代謝のようなものである。
そんな愛すべき一生モノたちと共に、できるだけシンプルに、自身の力を頼みに、いきたいものです。


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